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コーヒー通になれる!コーヒーの面白い歴史【シーク・オマール/カルディ少年】

※Coffee fam.は「私が初心者時代に悩んだこと」を振り返り、記事にまとめています。中には悩みの解決に役立ったものをPRしていますのでご容赦ください。

今回はコーヒーの歴史について紹介します。

歴史と聞くと暗記ばかりでつまらない印象ですが、今回は物語調のものを用意しました。

ぜひ、当時の情景などを想像しながら読んで頂けると、コーヒーの歴史が好きになるかもしれません!

では、コーヒータイムトラベルの始まりです!

目次

コーヒー発見の逸話【シーク・オマール/カルディ少年】

起源とされるコーヒーの逸話で、有名な説が2つあります。

コーヒー逸話の有名な説2選
  • 修道士「シーク・オマール」が発見したコーヒーの実
  • ヤギ使い「カルディ少年」が見つけたコーヒーの実

どちらもあくまで伝説であり、特に「カルディ少年」は年号が不明であるため、確証はできません。

しかし、今現在も受け継がれているお話で、コーヒーショップ「カルディ」の名前の由来にもなっています。

それでは、ひとつずつ解説します。

修道士「シーク・オマール」が発見したコーヒーの実

1258年、日本では「承久の乱」の後であり「鎌倉幕府初期」のお話になります。


シーク・オマールは、現イエメンにあるモカで活躍していた修道士でした。

ある時、病気にかかってしまったモカ王の娘を祈祷した際に、この娘に恋をしてしまったそうです。

王はそれを知って激高し、街の奥に追放しました。

シーク・オマールは町へ向かう道中で飢餓に苦しみましたが、美しい小鳥のさえずりの導きで「花と赤色の実のなる木」を見つけました。

それを洞窟に持ち帰り、スープにして飲んだところ、「疲れが取れ、更に空腹も満たされ元気が出た」のです。それが「コーヒー」でした。


コーヒーの不思議な力を感じた、イエメンの逸話です。

ヤギ使い「カルディ少年」が見つけたコーヒーの実

続いてはエチオピアの逸話です。

年号は今のところ不明となっています。


現エチオピアの「アビシニア」に「カルディ」というヤギ使いの少年がいました。

ある時カルディ少年は、普段大人しいヤギたちが興奮し飛んだり跳ねたりしていることに気がつきます。

理由を探ると、牧草地に生えている木の赤い実を食べたことが原因だとわかり、少年も自ら食べてみると気分が爽快になりました。

そこで夜の儀式で居眠りをしてしまう修道院たちに、汁にして飲ませてみたところ、眠気が飛んだそうです。

この実のおかげで「眠らずの修道院」と呼ばれるようになり、その実は「魔法の木の実」と歌われ各地に広まりました。

それが「コーヒー」でした。


あの有名なコーヒー専門チェーン店「カルディ」の紙袋にも「ヤギ」と「少年」の絵が書いてあります。

恐らくこの逸話がデザインのモデルではないかと思われます。

【ウィーンvsトルコ】コーヒーハウス「青い瓶」が鍵になる

1683年、日本だと元禄時代初期ごろ、徳川綱吉の生類憐みの令や松尾芭蕉が活躍した時代です。


ヨーロッパの中央部・東部を占拠していたトルコ軍が、ウィーンへ侵略してきました。

一大勢力だったトルコ軍にウィーン軍(当時のローマ帝国)は完全に包囲されてしまい、戦況は非常に悪く、陥落寸前だったそうです。

結果的にウィーン軍は、戦況を覆し勝利したのですが、この戦いの勝利の立役者となったのが「フランツ・コルシツキー」でした。

彼は、トルコ語とアラビア語を話すことができたので、「伝令係」として味方軍であるポーランドに援軍を求める任務を引き受けました。

その際に、敵のトルコ軍のユニフォームを身に纏い、敵軍の包囲網の中をかいくぐって、幾度となくピンチをすり抜けたそうです。

無事に任務を果たし、ポーランドから援軍を呼ぶことができたため、トルコ軍は撃退され、勝利を収めました。

その時に、トルコ軍は色々な物資を置いて逃げて行ったと言われています。

その内の一つが「コーヒー豆」でした。

もちろん、フランツ・コルシツキー以外は知らなかったので、誰も見向きもしなかったそうです。

ですが、彼はアラブ諸国に住んでいたこともあり、それが「飲み物」であることを知っていたので、コーヒー豆を貰い、戦争の報酬で「青い瓶」というコーヒーハウスをオープンさせました。

これがウィーン初、そして、中央ヨーロッパ初の「コーヒーハウス」の誕生でした。


なぜ、青い瓶なのか?

その名前の由来はわかっていませんが、カフェ文化の一端を担い、そして「現在も」形を変えて「青い瓶」が世の中に伝わっていることは確かです!

現在も、と言いましたが「青い瓶」と聞くと、何か思い浮かべませんか?

そうです!

浅煎りサードウェーブ系コーヒーの先駆者として、現在日本各地で広まっているあの「ブルーボトルコーヒー」です!

実はその店名は、この歴史から来ています。

創業者は、「フランツ・コルシツキーへの行動と栄誉に敬意を込め、そして、末永く繁栄することを願い同じ店名をつけた」そうです。

もう一点、余談であり、筆者の遠い記憶の片隅のお話なのですが、私は一度、旅行でイタリアに行ったことがあります。

沢山の美術館に行き絵画やモニュメントを見ましたが、ある場所(不明)で、「ウィーン軍トルコ軍の戦いにコーヒー豆の描写がある絵」を観たのを覚えています。

イタリアと言えば「ローマ帝国の名残でありキリスト教徒」なので絵の存在に納得しましたし、今も受け継がれる歴史の絵画の片隅に、コーヒーが描かれていたことに大変感動しました。

コーヒー恋物語とブラジルコーヒーの始まり

時代は約18世紀、日本だと元禄時代 1688~1707年のお話です。

この時代は、赤穂浪士仇討ち事件や徳川綱吉が死亡し生類憐みの令が廃止されたころになります。

現在は、生産量1位であるブラジルですが、コーヒー栽培が始まったのはやや遅く、インドや中南米よりも後でした。

どのようにして広まったのか。

それは、1つの「ロマンチックな恋」がきっかけでコーヒーが広まったというお話があります。


オランダから、ルイ14世へ献上されたコーヒーの木がパリの植物園で根付き、中南米のフランス植民地で栽培され始めたあたりの時代です。

ブラジル北東部に位置するギアナ(フランス領)で、フランスとドイツの紛争が勃発しました。

その事態収束のために「ブラジル」から派遣された「フランシスコ・デ・メロ・パリエッタ」がコーヒー恋物語の主人公です。

実は、彼には「ブラジルへコーヒーの木を持ち出す」という内密な使命もありました。

当時ギアナでは、国境を超えたコーヒーの持ち出しは重い罰則があったため、非常に困難な使命だったそうです。

パリエッタは端正な容姿と社交性を持ち合わせていたので高官の婦人から人気があり、その内の一人であるフランス領代理総督婦人と秘密の恋に落ちました。

ある日こっそり、その婦人に、コーヒーの木の任務を打ち明けたそうです。

その後紛争は無事に収束し、お別れの晩餐会が開かれました。

その際に、総督婦人はパリエッタに「花束」を渡しました。

その花束の中になんと、「5本のコーヒーの苗」が隠されていました。

もちろん皆、気が付きません。

こうして、パリエッタはブラジルにコーヒーを持ち帰ることに成功し、その5本の苗がブラジルの土地で深く根付き、今日のブラジルコーヒーへと繋がった、と言われています。


まさしく、禁断の恋。

そして、ブラジルコーヒーの繁栄に導いたコーヒー恋物語です。

ボストン茶会事件

1773年、日本では杉田玄白が解体新書の翻訳を始めたころのお話になります。


ボストン茶会事件とは、アメリカのボストンで勃発したコーヒーにまつわる有名な歴史的事件です。

これによりアメリカ合衆国は、コーヒーを飲むようになったと言われています。

ではそれまでは、嗜好品として何が飲まれていたのでしょうか?

実は「紅茶」でした。

その理由は当時イギリスの植民地であったことが背景にあります。

イギリスから紅茶が沢山入ってきていたので、当時アメリカでも大流行していたそうです。

イギリスにも元々はコーヒーを嗜む文化がありましたが、コーヒーを巡った貿易戦争でフランスなどに敗れたために、紅茶が普及したと言われています。(その普及を支えたのが紅茶生産国で有名な「インド」・「セイロン」でした。)

イギリスはその戦争で財政難に陥り、それを工面するために植民地であるアメリカにさまざまな税金をかけました。

最終的に「茶税」という「お茶に税金をかける」ことが制定されてしまい、当時紅茶が大流行していたアメリカにとって、とても不遇な出来事でした。

市民の不満は溜まり、イギリスではなく、オランダから密輸入する流れが広まります。

しかし更にイギリスは、その密輸を禁じるために、イギリスからしかお茶を買うことができない法律を作ってしまいました。

そんな中、お茶を乗せたイギリスの船がボストン港に到着し、アメリカは荷揚げを拒否。

その後も船はボストン港に停泊していたので、アメリカの革命派グループ50人が船を襲撃し紅茶を海へ投げ捨てました。

「ボストン港をティーポットにするぞ!」と口々に叫びながら。

これが「ボストン茶会事件」です。

この事件をきっかけにイギリスはアメリカへ出兵しました。

アメリカもイギリスへの不満が募り大戦争となりました。

これが8年続いた「アメリカ独立戦争」です。


その後アメリカは「紅茶は非愛国的な飲み物である!」とされ、コーヒー大国へと変化していきました。

余談ですが、アメリカのコーヒーとして「アメリカンコーヒー(薄いコーヒー)」が有名ですよね。

それは、元々紅茶を飲む文化だったため、その紅茶に似せて、薄い味にしたりミルクを入れて楽しんでいる、という一説があります。

【始まりの物語】日本で最初のコーヒーハウス

日本に初めてコーヒーが上陸し、飲まれ始めたのは「日本が鎖国をしていた時代」だそうです。

不確定ながらも、おおよそ「徳川幕府の時代」ではないかと予想ができます。

場所は長崎の出島。

鎖国中、唯一、世界と交流することができた場所ですので、コーヒーが日本に入ってた理由として納得ですよね。

とはいえ、その当時コーヒーを口にすることができたのは商人・通訳・遊女・役人など「限られた人たちだけ」でした。

では、一般市民に広まったのはいつ、どこなのでしょうか?

それは1888年(明治21年)、日本に初めてできた「可否茶館」と呼ばれる「コーヒーハウス」でした。

これは「鄭永慶」という人物が東京の上野に作ったコーヒーハウスです。

彼は生い立ちからも語学堪能だったため、アメリカへの留学経験がありました。

その地で体験した「コーヒーハウス」に大きな影響を受け、日本にも作りたいと思ったそうです。

アメリカのコーヒーハウスは、当時珍しい「身分の関係ない大人の社交場」でした。

しかし当時の日本は「鹿鳴館時代」の真っ只中。。。
欧風で華美な社交場「鹿鳴館」で派手な遊びが行われており、それを見た鄭永慶は大憤慨したそうです。

なぜなら、そこは上流階級のきどった人たちだけが楽しめる空間で、一般市民は一切入ることはできない場所だったからです。

まさに欧「風」でした。

そんな鹿鳴館を横目に、アメリカで見た「コーヒーハウス」を日本に作りたいという思いから、「可否茶館」が誕生した、という歴史があります。

鄭永慶は、苦労の多い人生であり、病気で若くして亡くなりました。

それと同時に「可否茶館」も閉店。

時代が時代ですから経営状態も良くなかったようです。

「可否茶館」は4年で幕を閉じました。

しかしその後に、現存する東京最古の喫茶店として有名な「カフェパウリスタ」ができましたし、日本の喫茶店文化に大きな影響をもたらした場所であることに変わりありません。

今は、建物こそ残っていませんが、「可否茶館」があった跡地は残っているようです。

気になった方は調べてみてはいかがでしょうか?

まとめ

いかがでしたでしょうか?

コーヒーが「数百年の時を経て、形を変えて今に至る」と考えるとおもしろくないですか?

コーヒーを知るということは、自ずと生産国の位置だけでなく、世界史や日本史までも知ることができてしまうので、ロマンがあるなあと思うのです。

歴史なので、この記事が完全な正しさとは言えませんが、「コーヒー1杯」が世界や日本の歴史に多く関わっていると思うだけで、味わいも変わるような気がしてしまいます。

まだまだ伝えきれない面白い歴史があるので、ぜひご興味ある方は調べてみてくださいね!

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もし、コーヒー初心者の友達に教えるなら。

というテーマで私が学んできたコーヒーの知識をまとめました!

1ヶ月目で学ぶこと、2,3ヶ月目に学ぶこと、1年目で学ぶことといったように、体系的にまとめてあります。

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